チンパンジー研究で分かった人間の子育ての本質〜松沢哲郎氏に聞く

 両親はいつもクラスの子どもたちの話をしていた

——人間の本来のあり方とはどのようなものだと考えておられるのか、さらに詳しく聞かせてください。

「2011年に私のチンパンジー研究の集大成として『想像するちから』を出版しました。その中で、心、ことば、きずなの3つが人間という生き物にとって大切で、チンパンジーにはない人間の本質は想像するちからだと書いています。これをもっと縮めて言うと、愛なんですよ。聖パウロの言葉に『心に愛がなければ、どんなに美しいことばも、相手の胸に響かない』という表現があります。彼は約2000年前に生きた聖人ですが、間違いなく私たちと同じホモサピエンスですし、この場にいればスマートフォンを扱っていたはずです。そうした人が生涯かけて考えたこの表現は、全くその通りだと思います」

松沢氏が「遺書のつもりで書いた」という『想像するちから』は、高校の国語の教科書にも掲載されている

松沢氏が「遺書のつもりで書いた」という『想像するちから』は、高校の国語の教科書にも掲載されている

「愛という言葉を口にするのを、まともな科学者はためらうと思います。私も『Nature』や『Science』に掲載される論文を書いているのでまともな科学者のつもりですが、そんな人がいきなり愛について語り出したら聞き手はきょとんとするかもしれません。だけど、人間とは何かということを突き詰めて考えていくと、それは想像するちからであって、それがどこに向っているのか、何のためなのかをもう一段深く考えると、それはやっぱり愛なんだよね。例えば『互酬性』(*6)という言葉で人間の利他行動を説明することもできるけれど、それは科学や生物学の用語をまとった、人間的でない人間観だと感じます」

——たしかに、科学者は客観性や中立性を保とうとして逆に自分の意見にバイアスをかけてしまうことがあるように思います。

「物事を明晰に理解しないといけないという科学者の物の見方は、科学というものの本質的な限界を示しているとも言えます。科学と同じくらい重要なものとして芸術がありますが、芸術は相手の心に届きますよね。音楽を聴いて感動し、映画を見て涙を流す。あれほどの感動を科学で与えようと思うと本当に大変です。私は競争する相手が科学者の中にいるとは全く思っていないんですよ。芸術家と同じように、いかにして相手の胸に届くメッセージを科学の立場から届けるか、そのことをいつも考えています」

——科学の立場から芸術のように長く残るものを作るのも、難しいけれどやりがいのある作業ですね。

「強いて言えば、日本の科学にこそ未来があるのかもしれません。京都学派の西田幾多郎や今西錦司(*)に代表されるような、全体論的なアプローチが生きているからです。僕は霊長類研の実験室でチンパンジーの心を研究し、アフリカのチンパンジーの野外観察も続けていますが、このように複数の視点から対象を研究しようという意識は欧米の科学者には希薄です。何とか全体を見てやろう、人間を理解してやろうという気持ちがあるから僕はそうしているわけですが、それを自分自身の努力ではなく、日本の文化なのだと思います」

——松沢先生の人間観や教育観はどこで培われたのでしょうか。

「背景として、両親が小学校の先生だったんですね。僕の上に兄たちがいて、四畳半の掘りごたつを両親と男の子3人で囲んで夕食をとり、その中で父や母が『今日、うちの子はこうだった』と話すのが一家団らんの光景でした。うちの子というのは、もちろん息子たちではなくクラスの子どもたちのことです。家族の団らんとはそういうものだとずっと思っていたので、大学に入ってから山岳部の友人の家に遊びに行き、夕食の時に友人と両親が株式投資の話をしていた時はカルチャーショックを受けました(笑)」

「小さい頃から教育とはどういうものかを教わり、先生というのは生涯かけて教育に関わる人なんだなという敬意を持ち、彼らの持っている愛情を目の当たりにしながら育つと、日本の教育の現状がこれでいいとはなかなか思わないですね。実は兄も小学校の教員に、兄の子も中学校の教員になりました。僕はたまたま研究者になって、少し毛色の違う黒いのに教えることになったけれど、基本的には自分も教師なんだというのはすごくあります」

——最後に、どうすれば日本の教育が良くなると考えておられるかを聞かせてください。

「やはりアウトグループの視点、つまり自分の通った学校や受けた教育が普通だと思い込まずに、より良い教育を考えるのが大切だと思います。例えば幕末の松下村塾で吉田松陰が教えたのはたった1年ほどなのに、数多くの人材を輩出していますよね。吉田松陰がどんな教育をしたのか、知りたくないですか。おそらく時間ではその価値を計れない、聞き手が未来にふれているような気持ちになる話をしていたのでしょう。今の私たちにとって未来にふれるような教育とは何か、それを考える必要があるのではないでしょうか」

(文:荒木勇輝、写真:吉田亮人)


*6: 社会性を持つ動物の個体間の関係において、一方が食物の分配などの援助を行い、その後で他方がお返しに援助をすることを互酬的協力と呼ぶ。
*7: 西田幾多郎は「善の研究」などを著した戦前の日本を代表する哲学者。今西錦司は霊長類研究の草分けとして知られる人類学者・登山家。ともに京都大学に在籍した。

【プロフィール】
松沢先生プロフィール写真
松沢哲郎(まつざわ・てつろう)
1950年愛媛県生まれ。京都大学文学部で哲学を学び、大学院に進学後、霊長類研究所の助手となる。78年からチンパンジーの心を研究する「アイ・プロジェクト」に関わり、86年からはアフリカの野生チンパンジーの生態調査も続けている。93年から京都大学霊長類研究所教授(現職)。現在は国際霊長類学会長、日本モンキーセンター所長を務める。近著『想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心』(岩波書店、2011)など著書多数。
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